年末は第九、第九と盛り上がります。
それが年が明けるとベートーベンのことなんかまったく忘れ去られます。
ですが。ベートーベンは第1がいいのです。
なぜか3番以降に人気が集まりがちですが、第1はその番号の通り、ベートーベンが29歳の時に作曲した最初の交響曲で、若さみなぎり全楽章がとっても聞きやすい曲なのです。
調子はハ長調
ハ長調といえば、楽譜に#だの♭だのが一つもついていない、単純に楽しい曲調です。
響きは明るく、ピッカーんと晴れ渡る青空、爽やかに通り過ぎる風といった祝賀的な楽想でまさに年の初めにうってつけな調子です。
ベートーベンの交響曲はほぼ異なる調子で書かれていて、ハ長調はこの第1番だけです。
しかも、多くの場合2楽章はもっさりして退屈ですが、第1番は2楽章もわかりやすいメロディーが並びます。
1月はベートーベン交響曲第1番を聞こうではありませんか。
ベートーベンは1770年にボンで生まれ、22歳の時からウィーンに移り住み本格的な音楽活動を開始します。交響曲第1番が誕生したのはそれから7年後の1799年、29歳の時です。
ベートーベンが生きた時代
ベートーベンが生きた時代のヨーロッパは激動の時代でした。
“第3番「英雄」は当初ナポレオンに贈る曲だったのだがナポレオンが皇帝になったことで幻滅して贈るのをやめた”とされるエピソードが有名なように、フランスのナポレオンがヨーロッパを征服しまくっていた頃です。
ベートーベンはボン生まれでウィーンに仕事をしにきました。ボンは今のドイツ、ウィーンはオーストリアですが、ベートーベンの頃はどちらも「神聖ローマ帝国」内でした。
神聖ローマ帝国は崩壊してざっくりいってドイツになっていきますが、その大変動の時期とベートーベンの生涯は重なる部分があります。
この頃のヨーロッパの歴史
この頃のヨーロッパでは下記のような大きな出来事がありました。
1795年 ポーランド消滅
ロシア、プロイセン、オーストリア帝国は1772年以来、3回にわたってポーランドを浸食、1795年ついにポーランドは消滅する。
1789年 フランス革命
フランスで、貴族中心の古い体制を平民が打ち破り「人間の自由・平等・主権在民」をうたうフランス人権宣言が採択された。
オーストリアやドイツの知識人は、フランス革命で王権が打倒されたことに共鳴する傾向があった。
1796-1812年 ナポレオンの登場
フランス革命で活躍したナポレオンが軍を掌握し各地遠征を決行し華々しい行動で市民の支持を獲得。
1804年、皇帝になる。国民投票の結果とはいえ通常ローマ教皇から与えられる帝冠を自ら授けるという尊大ぶり。
1806年 神聖ローマ帝国滅亡
1805年ナポレオンはドイツ・オーストリアを攻撃、神聖ローマ帝国のドイツ諸連邦がナポレオンの支配下に置かれ、神聖ローマ帝国は消滅する。
1815年ウィーン会議
1812年のロシア遠征でナポレオンは敗北、その後は太平洋の孤島セント・ヘレナに流され余生をすごす。
ナポレオンを排除した後のヨーロッパの”区割り”を決めるためにヨーロッパ各国の代表がウィーンで会議を開いた。
年表
年 | 出来事 | 交響曲作曲 | ベートーベン年齢 |
1770 | 誕生 | ||
1789 | フランス革命 | ||
1792 | 22歳、ウィーンへ | ||
1795 | ポーランド消滅 | ||
1796 | ナポレオン登場 | ||
1800 | 1番 | 29歳 | |
1802 | 2番 | 31歳 | |
1804 | ナポレオン皇帝に | 3番 | 33歳 |
1806 | 神聖ローマ帝国消滅 | 4番 | 35歳 |
1808 | 5番
6番 |
37歳 | |
1812 | 8番 | 42歳 | |
1813 | ナポレオン敗北 | 7番 | 42歳 |
1815 | ウィーン会議 | ||
1824 | 9番 | 53歳 |