「ボナパルト」から「エロイカ(英雄)」へ
ベートーベン交響曲第3番『英雄』は当初はナポレオンに捧げることを念頭に表題を「ボナパルト」としていたが、のちに『英雄』に変更されたことについて、↓の記事で説明しました。
ではなぜ、書き換えられたのか、について真相を探ります。
ベートーベンの弟子フェルディナント・リースの説はつぎのものです。
しかし、ナポレオンが皇帝の座に就いたことを知り、ベートーベンは激怒し「ナポレオンも他のヤツと同じ暴君になるだろう」と叫んだ。
そして表紙を破り捨て、新しく書きタイトルを「エロイカ」とした。
リースのストーリーではつぎのことが読みとれます。
・ナポレオンは下級軍人から駆け上って旧体制の国々を崩壊に追いやったヒーローだと信頼をよせていたが、結局は支配者側になったのかと、裏切られた気持ちになり怒った。
これは本当でしょうか。
この記事では、
ベートーベンが怒ったからではなく、パトロンの意を汲んだため
という結論で、つぎの4つの面から再考したいと思います。
・ベートーベンの立場:啓蒙思想を学ぶ
・スポンサー:貴族の支援
・国際関係:ナポレオン優勢から劣勢へ
ベートーベンの”身分”
ベートーベンは音楽家の系統に生まれました。
音楽家は教会や貴族の宮廷で演奏したりマネジメントをしたりするのが仕事です。
身分としてはあくまでも雇われ人でお抱えの召使的な扱いだったということです。
現存している生家をみても、十分立派な家であるけれども、貴族のお屋敷というほどではありません。
ベートーベンの生家(ボン)。現在は博物館になっている。
また、ベートーベンは何人かの女性と恋人同士になりましたが、結婚に至ったことはなく生涯独身でした。
これは、恋人になった女性は貴族の子女で、それにたいしてベートーベンは”雇われ人”という身分の違いから叶わなかったことが要因とされています。
ベートーベンの立場
ベートーベンはボン大学に入学したことがあります。ボン大学は啓蒙思想(封建的思想を批判し人間性の解放をめざす)の中心となっていました。
つまりベートーベンは一般市民であり市民の権利向上に期待をもっていて、ナポレオンに好印象をもったことはあると想像できます。
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ウィーンにこられたのは貴族のバックアップがあったから
しかし、だからといってベートーベンは貴族の没落を願ったのでしょうか。
ここは疑問です。
ベートーベンは音楽を仕事にしようとウィーンに来ています。
音楽を仕事にするには、支援が必要です。
スポンサーとなってくれる貴族あってこそベートーベンは仕事ができるのです。
入場料の支払いによる演奏会もなされるようになってはいましたが、それだけでは安定した収入にはなりません。
その状況で、お金持ち貴族の崩壊を望むでしょうか?
そもそも、ベートーベンがウィーンにこられたのも、故郷のドイツ・ボン系でボヘミアの貴族ワルトシュタイン伯爵にオーストリアの貴族リヒノフスキー侯爵を紹介してもらったことが大きく影響しています。
交響曲第3番のパトロンはロプコヴィッツ伯爵
交響曲第3番のパトロンには、ロプコヴィッツ伯爵(ボヘミア・スロバキア)が最初から名乗りを上げています。
弟子のフェルディナント・リースが出版社への売り込みの手紙(1803年10月)にこうあります。
「100ダカットで売ります。ボナパルトに捧げられています。ロプコヴィッツは半年間所有できれば400ダカット払うといっています。でなければボナパルトと名づけられます。」(小松雄一郎編訳新編『ベートーヴェンの手紙』岩波文庫)
ロプコヴィッツは最終的に交響曲第3番のスポンサーになっています。
国際関係
フランス革命後、ヨーロッパは「フランス革命政府」と「反革命軍」が戦っていました。
・ナポレオンは「革命政府」
・ハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国、オーストリア帝国)は「反革命政府」です。
ナポレオンとハプスブルク帝国の戦いを年表でみます。下欄はその年作られたベートーベンの交響曲。
1796年 イタリア遠征
ナポレオン、北イタリア平定。
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク) |
1799年 マントバ包囲網
オーストリア、北イタリア奪回。
×フランス(ナポレオン軍) | 〇オーストリア(ハプスブルク) |
1800年 第2次イタリア遠征 「マレンゴの戦い」
フランス、北イタリア再奪還
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク) |
ベートーベン交響曲第1番作曲【パトロン:スティーブン男爵(オーストリア)】 |
1801年 ナポレオン、フランス革命で関係が悪くなっていたローマ教会と和解
フランス(ナポレオン軍) | 講和 | オーストリア(ハプスブルク) |
1803年 イギリス、フランスへ宣戦布告
ベートーベン交響曲第2番作曲【パトロン:カール侯爵(ドイツ)】 |
1804年 ナポレオン、国内での幅広い支持を受け、国民投票により皇帝に即位。ローマ教皇立ち合いのもと戴冠式を挙行。
ジャック=ルイ・ダヴィッド画「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」
ベートーベン交響曲第3番「英雄」作曲【パトロン:ロプコヴィッツ侯爵(ボヘミア・スロバキア)】 |
1805年 「アウステリッツの三帝会戦」
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク)、ロシア。
オーストリア、フランスに屈服。 |
交響曲第3番『英雄』が作曲されたのは1804年です。
その時期の戦歴はナポレオンのフランスとオーストリア・ハプスブルクはフランスの3勝1敗で、1801年には講和しています。
ところが、1805年に再びナポレオンとオーストリア・ハプスブルクは戦います。
そして、ここでナポレオンが完勝します。
ベートーベンの戦況分析
ベートーベンはこれをどのように見ていたでしょうか。
戦争が始まり、ベートーベンは
ハプスブルクも危ういなぁ、新しいお客さんを開拓しなくっちゃな。 |
と焦っていたことが考えられます。
そうこうしていると1801年にオーストリア・ハプスブルクはフランスと講和します。
おお。新支配者はナポレオンになったか。挨拶がわりに献呈曲をつくろう。今後お見知りおきを! 高く買ってくれるといいな。 |
と新曲の献呈を決めたのかもしれません。
第3番に着手したのは1802年とわかっています。
1803年には、イギリスがフランスへ宣戦布告します。
ハプスブルクもは落ち目か・・・。とはいえ最重要顧客には違いない。 それにナポレオンは音楽に果たして興味がある人なのか、わからない。 ここはハプスブルクを手放すわけにはいかないなぁ。 |
1803年にハプスブルク帝国領内ボヘミアの貴族・プロコヴィッツ侯爵がスポンサーの名乗りをあげます。
はい? ロプコヴィッツ侯爵お金をくださいますの? もつべきものはスポンサー様でございます。 |
1804年ナポレオンが戴冠式をあげ自分で皇帝になります。
ハプスブルク様の敵、ナポレオンとんでもないっすね。 タイトル? 全然、こだわってませんよ。とっとと消しますね。 今、やっちゃいます。「グシャグシャグシャ・・・」 |
ということで、タイトルを変更したのではないか、と思うのです。
「エロイカ」のタイトルになったのは1806年10月の版からです。
誰についたら得か? いつの時代も悩める問題なのだ。