ロシア国立交響楽団が来日しています。
ロシア国立交響楽団[シンフォニック・カペレ]
ロシア国立交響楽団は1957年にソビエト放送オペラ交響楽団を前身とする楽団とのことです。
1971年には有名なショスタコーヴィチ(ドミトリー)の息子マクシム・ショスタコーヴィチが音楽監督に就いていました。
ロシア国立交響楽団[シンフォニック・カペレ]と「スヴェトラーノフ記念 ロシア国立交響楽団」
「ロシア国立交響楽団」というと、以前来日時に演奏会に行ったことがありました。
ところが、どうも様子が違います。
欧文表記を確認してみると、双方異なっていました。
「STATE SYMPHONY CAPELLA OF RUSSIA」←今回。
「The State Academic Symphony Orchestra of Russia “Evgeny Svetlanov”」←前回。
ウェブサイトもそれぞれ別にありました。
なんと、日本語で同じ「ロシア国立交響楽団」でも別の楽団でした。
改めて日本語表記をみるとそれぞれ
「ロシア国立交響楽団[シンフォニック・カペレ]」←今回。
「スヴェトラーノフ記念 ロシア国立交響楽団」←前回。
となっていました。
スヴェトラーノフは1936年に活動開始とあり、シンフォニック・カペレは1957年にソビエト放送オペラ交響楽団が前身とあるので、スヴェトラーノフの方が歴史がありそうです。
和訳になると紛らわしくなります。
目で見たところだと、シンフォニック・カペレの団員の方々はちょっと若いというか軽ろやかな様子です。
ヴァレリー・ポリャンスキー
1949年モスクワ生まれの指揮者です。
「赤いカラヤン」の異名をもつといいます。
さて、どのようなことなのでしょうか。
プログラム
プログラムはチャイコフスキー他の、短編いいとこどりパッケージです。
チャイコフスキー:スラヴ行進曲
チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」
チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ ・ダ・リミニ」
ボロディン:歌劇「イーゴリ公」よりだったん人の踊り
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グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミュラ」序曲
チャイコフスキー:バレエ組曲「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」よりワルツ
リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲
チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」よりポロネーズ
正気ですか!?という豪華ボリュームです。
演奏
1曲目はスラブ行進曲です。
この曲は10分ほどの短い曲ですが、悲しみあり、反オスマン帝国への意気ありといった様相で、音楽としては変化に富んだ楽しい曲です。
静かに静かに始まり、聴きなじみのメロディーへ。
厚みがありそれでいて柔らかい”泣き”の弦です。
そして、シンバル。
ロシアのシンバルはシンバルが「シンバルに生まれてきたよかった」と言っているような、全開放の華やかさがあり、最高です。
そしてスネアドラムもバリバリっと張り切った音で盛り上げています。
地鳴りのように底からだんだんと膨れ上がってきて音の塊におおわれて、スワッと引いていく一体感が素晴らしいです。
しょっぱなからロシアの世界にどっぷり。
これだけでも今日の演奏会は大当たりなことがわかりました。
このスラヴ行進曲が作られたのが1876年、チャイコフスキー36歳の時です。
同じ年に作られたのが、フランチェスカ・ダ・リミニです。
スラヴがなじみやすい曲なのにたいし、フランチェスカはつかみどころがもうひとつで退屈気味な曲です。説明をみるとダンテの「神曲」中にある詩を題材にしている、とのことで難解さが共通しているなと思いました。
つかみどころがないという点ではロミオとジュリエットも同様です。
途中までは「プロコフィエフのロミオとジュリエットの方がいいな」という感じですが、やはりチャイコフスキーの「あまーい響き」と”サビ”の芽はまちがいなく確認できます。
この曲はチャイコフスキーが29歳の時の曲です。
弦を追い立てるようにパーカッションが迫っていく部分は、手に汗にぎるほどのすごい迫力でした。
バレエ3曲メドレーはただただ幸福な空間です。
ヴァイオリンがしぶく滑らかで、1/fゆらぎばんばんです。
赤いカラヤン、大柄で熊のような風貌ですが、ちょっとワルツを踏んだりしています。
指揮台がなく、舞台上で広く動いて、細かい部分もピンポイントで指示しているのがわかります。
強弱それぞれ丁寧でわかりやすいところがカラヤンなのかなと思いました。
それにしても「赤い」って・・・。
エフゲニー・オネーギン、ルスランとドミラトは、景気よくシンプルに元気に。
とくにエフゲニ―は大いに巻いてき最高潮なフィナーレで会場は、スタンディングオベーションでした。
だったん人の踊り。
ロシアのオーケストラで聴くだったん人の踊り、これぞ本場かと感動です。
厚みがあるのですね。
スペイン奇想曲では第1ヴァイオリンがテクニックを披露する箇所があり、注目していました。
力技で押してくるのかとおもいきや、意外にスマートな運びで見事!でした。
全体、期待どおりのボリューミーと音圧、それに対する緩も丁寧な演奏でした。
注目の人物が
スラヴ行進曲で、気が付いたのが、大太鼓の音でした。
大太鼓がアクセントをポンポンポンポン入れていてノリノリ感が高まっています。
見ると、女子です。
女子がなにげなく大太鼓を叩いています。
ロミオとジュリエットではこの女子がティンパニーを打っています。
「担当は”太鼓”のくくりなのね」と思っていましたら。
次のフランチェスカでは、左側に移動していて最後大盛り上がりのところで、トタン板をガシャガシャガシャとやるような楽器を盛大に鳴らしていました。
これで驚いていたら、だったん人の踊りではトライアングル、鉄琴。右側に移動してタンバリン、そして最後には、左手で大太鼓、右手でタンバリンと両手使いの大活躍、目が離せませんでした。
ロシアの曲は特にパーカッション軍団の存在感が魅力ですが、打楽器にこんなに耳と目がもっていかれることはなかなかないです。
いいもの聴かせて・見させていただきました。
時代背景
ショスタコーヴィチについて
ロシア帝国、ソ連、ロシア連邦
シンフォニック・カペレにいたことのある、マクシム・ショスタコーヴィチの父ドミトリー・ショスタコヴィチは1920年代から1970年代に活躍したソ連の作曲家です。
現在ロシア連邦とよばれている国は1991年まではソビエト連邦でした。
そのソビエト連邦が成立したのが1922年です。
それまではロシア帝国で皇帝による専制政治が行われていて、近代化が進んでおらず、第1次世界大戦ではドイツに押されっぱなしでした。
これにより国民生活が破壊され、国民の間で不満が高まり革命へと発展しました。
このロシア革命が起こったのが1917年。
ドミトリー・ショスタコーヴィチ
父ドミトリー・ショスタはそんなソ連混乱の時期に誕生しました。
ソ連の初代最高指導者はレーニンで任期は1922-1924年でした。
そして、2代目がスターリンです。任期は1924-1953年でした。
このスターリンが父ショスタの人生を翻弄させたのです。
スターリンは恐るべき独裁者で、自分の意思に反する者は死刑か強制収容所行きという恐怖政治をしきました。
音楽家もこれに漏れず、父ショスタはスターリンの顔色をひたすらうかがいながら作曲する日々を送らなければなりませんでした。
交響曲名からもそのことがうかがえます。
例えば次の曲があります。
交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」1927年作曲。
十月はロシア暦で日本では11月。
交響曲第7番「レニングラード」1941年作曲。
1941年は第2次大戦のさ中、ドイツがロシアに侵攻しレニングラードを包囲した「レニングラード攻防戦」が戦われた年です。
包囲は900日続きましたが、ソ連はそれに耐え勝利しました。
父ショスタは、まさにレニングラードでこの曲を作ったということです。
マクシム・ショスタコーヴィチ
さて、息子ショスタが生まれたのが1938年です。
1971年にソビエト放送交響楽団の首席指揮者に就任しました。
父ショスタが1975年に亡くなると、アメリカへ亡命します。抑圧されながら作曲する父をみて決めていたということです。
曲について
スラヴ行進曲
この曲が作られたのが1876年。
この年にスラヴがテーマの曲が作られたのには時代の背景があります。
この少し以前からロシアは不凍港と肥沃な土地を求めて南方面への展開を試みていて黒海周辺のオスマン帝国領へ浸食し、オスマン帝国と争っていました。
他方、オスマン帝国支配下にあったバルカン半島の国々もオスマン帝国からの独立をめざし抵抗運動を行っていました。
1876年、オスマン帝国領だったブルガリアが蜂起しました。
それをオスマン帝国が大虐殺という形で鎮圧しました。
ブルガリアとロシアにはスラヴ系民族が多いという共通点があります。
ブルガリアのスラヴ人が虐殺されたことを追悼しスラヴ行進曲の原型が作られたということです。
このスラヴ連合は後にゲルマン民族と対立し第1次世界大戦のきっかけとなります。
だったん人の踊り
ボロディンのだったん人の踊りはオペラ「イーゴリ公」の場面の一つですが、この曲が作られたのは1869-70,1874-87ということです。
だったん人というのは、タタール人でモンゴル系の遊牧民です。
ロシアがまだロシアになる以前のキエフ公国だった頃、このタタール人に支配されていた時期がありました。
このキエフ公国の公がタタール人を征服に行くも敗れ帰還するまでの話が「イーゴリ公」で描かれているということです。
攻めに行く相手が踊っている場面の音楽なわけです。
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今日の1楽章