チャイコフスキーの1番
チャイコフスキーは1770年生まれのベートーベンより70年若い1840年生まれのロシア人です。
ベートーベンが活躍した時代はナポレオンのヨーロッパ征服の時代と重なっていましたが、チャイコフスキーの頃のロシアはどうだったのでしょうか。
年代 | チャイコフスキー年齢 | 交響曲 | 出来事 |
1840 | 誕生 | イギリスで産業革命 | |
1853-56 | クリミア戦争 | ||
1861 | 農奴解放 | ||
1861-63 | ポーランド反乱 | ||
1866 | 26 | 1番「冬の日の幻想」 | |
1872 | 32 | 2番「ウクライナ」 | |
1875 | 35 | 3番「ポーランド」 | |
1877 | 37 | 4番 | |
1885 | 45 | マンフレッド | |
1888 | 48 | 5番 | |
1893 | 53 | 6番「悲愴」 |
ヨーロッパに遅れをとっていたロシア
ロシアは西はポーランド東は極東と、ユーラシア大陸をほぼカバーする広大な領域をもつ帝国でした。
しかし、国力的にはヨーロッパ諸国に比べ遅れていました。
それが明らかにされたのがクリミア戦争です。
クリミア戦争は、1853年に黒海の主導権を争い、ロシア対フランス・イギリス・オスマン帝国同盟軍が争った戦争です。
ロシアはこの戦いに敗れました。
このことで、ロシアの威信は国外だけでなく国内でも失墜し、国民のあいだに不満が広がりました。
ロシアでは地主に農民が労働や地代を収めるという旧態依然とした農奴制がとられていましたが、この農奴制からの解放を求める改革の動きが強まり1861年、ついに廃止され農奴解放がなされました。
「ロシアの遅れを認めて進んだヨーロッパのように改革を進めよう」と考えた貴族階級の知識人がインテリゲンツィアです。
そして農村の人々とともに革命をめざそうとした都市部の知識人、ナロードニキもみられるようになりました。
ヨーロッパの”真似”から独自の音楽へ
遅れをとっていたのは国力だけではありませんでした。
音楽も交響曲はヨーロッパが絶対的な地位を確立していました。
ロシアでもチャイコフスキー以前はベートーベンなどの”真似”っぽい作品が多く、ヨーロッパい追いつくことを目標にしていました。
農奴解放がなされると、改革の気運が音楽業界にも広がり新しい道を切り開こうとする世代が生まれてきました。
チャイコフスキーはペテルブルグ音楽院で音楽を学んでいましたが、卒業後はこの新しい世代に属していきます。
チャイコフスキーの作品はナロードニキ的傾向があるともいわれています。
「作曲家が音楽を生み出すのではない。民衆の作りだしたものを作曲家は芸術としてまとめるだけだ」という先人のことばを受け継ぎ、ロシアの人々の心を伝える歌である民謡を生かしています。
なので、チャイコフスキーの交響曲にはロシア民謡のメロディーを聞くことができます。
第1番も第1、第2楽章はロシアっぽいメロディーが、4楽章ではロシア民謡「花が咲いた」が組み込まれています。
第1楽章「冬の日の幻想」
冒頭のロシアっぽいメロディー。
この楽章には「陽気な土地、霧の土地」のタイトルがついています。
ここでもロシアっぽいメロディー
第4楽章
民謡「花が咲いた」がモチーフで「農奴解放だぜぃ」という感じのかっこいいところ。