ベートーベンのパトロンの変遷
ベートーベンはウィーンで作曲活動をするにあたって、パトロンの支援が非常に重要でした。
交響曲1番から9番のパトロンはつぎのとおりです。
1800年 交響曲第1番
スヴィーテン男爵 | オーストリア |
1802年 交響曲第2番
カール・リヒノフスキー侯爵ドイツ | ドイツ |
1804年 交響曲第3番
ロブコヴィッツ侯爵 | ボヘミア・スロバキア地方 |
1806年 交響曲第4番
オッペルスドルフ伯爵 | シュレージェン地方 |
1808年 交響曲第5番
ロプコヴィッツ侯爵 | ボヘミア・スロバキア地方 |
ラズモフスキー伯爵 | ウィーン会議関係者(ロシアの特命大使) |
1808年 交響曲第6番
ロプコヴィッツ侯爵 | ボヘミア・スロバキア地方 |
ラズモフスキー伯爵 | ウィーン会議関係者(ロシアの特命大使) |
1812年 交響曲第7番
フリース伯爵 | オーストリアの銀行家 |
1812年 交響曲第8番
ルードルフ大公 | 神聖ローマ帝国皇帝の息子(ベートーベンの教え子) |
1824年 交響曲第9番
フリードリヒ・ヴィルヘルム | ウィーン会議関係者(プロイセン国王) |
初期のころはハプスブル家もメインのオーストリア、ドイツの貴族
次いでボヘミア・スロバキア、シュレージェンなど地方の貴族が入ってきて、
続いてウィーン会議関係者がかかわってくる。
とみてとれます。
みごとに国際情勢の変遷と連動しています。
古きよき(?)時代、貴族が潤沢な財産を音楽に注いでいました。
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フランス革命により「革命派」の波がヨーロッパに広がり始め、中央の貴族はそれに対抗せざるを得なくなっていました。
また、もともと1740年~のオーストリア継承戦争もあり戦費がかさみ、音楽どころでなくなってきます。
かわって、ハプスブルク家でも地方の貴族たちは富を貯えることができ、この人たちがパトロンとしての力をもっていきます。
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ナポレオン戦争の傷跡で国内経済が混乱し、地方の貴族たちも没落していきます。
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そこに救世主的に現れたのがウィーン会議関係者です。
ウィーン会議は、ナポレオンが敗北し、荒らされたヨーロッパの”線引き”をし直しましょうと各国の国王など代表が集まって開かれた会議です。
ベートーベンはこの方々に営業をかけパトロンの新規開拓に成功したのです。
ベートーベンは全盛期のナポレオンに第3番を「ボナパルト」にして献呈しかけましたが、ロブコヴィッツ侯爵のおかげでとりやめたことで、、旧来のお客さん・ハプスブルクと繋がりながら、ウィーン会議という新しい時代を創る人脈も手に入れ、パトロンのシフトチェンジに成功したといえましょう。
ナポレオンに献呈していたら第9までは生まれていなかったかもしれません。
1813年、ナポレオンの衰退を目前に「ウェリントンの勝利」の初演ではベートーベン自身がタクトを振りました。
ベートーベンの「やー危なかったわー。なんとかなったわー」とホットしながら軽やかに演奏した様子がめにうかぶようです。
「ウィーン会議」を題材にしたオペレッタ「会議は踊る」より
ウィーン会議には首脳が参加したが、開催地のハプスブルク家がもちまえの音楽・パーティ―気質で、夜は宴会だ舞踏会だともてなしたたためまったく会議は進まなかったことで「会議は踊る、されど進まず」という有名なことばが生まれることになった。
名曲だ~