「不滅の恋人」は誰か
ベートーベンの死後”宝箱”が発見されました。
その中に有名な謎として知られる手紙が2つあります。
・ハイリゲンシュタットの遺書
・不滅の恋人への手紙
です。
「不滅の恋人への手紙」は同じ人に宛てた3部からなる熱烈なラブレターで、3部で「わが不滅の恋人よ」と呼びかけるカ所があることからこうよばれるようになったのです。
“不滅の恋人とは誰なのか”論争が現在も続いていますが、有力な候補はいます。
数えきれないほど挙げられている候補のなかで、最有力なのがヨゼフィーネ・ブルンスヴィクです。
ベートーベンはピアニストの名手であり、デビュー前の若き頃貴族の家にピアノ家庭教師としての仕事もしました。ヨゼフィーネは生徒の1人でした。
2人は両想いになりましたが、経済的な理由からヨゼフィーネが結婚したのはヨーゼフ・ダイム伯爵でした。
この結婚はうまくいかず離婚となり、ヨゼフィーネは息子の家庭教師として雇ったクリストフ・フォン・シュタッケルベルク男爵と再婚しました。
ですが、この夫も事業に失敗し失踪、再び家族と暮らすことはありませんでした。
ベートーベンはヨゼフィーネがに亡くなる前まで送金を続けていたといいます。
「不滅の恋人への手紙」はいつ書かれたのか、どこで書かれたのか
「不滅の恋人への手紙」が書かれた時期は、手紙の内容からの推測で1812年と結論づけられています。
1812年というと、交響曲第7番、第8番が作曲された年です。
書いた場所はチェコの温泉場テプリッツで間違いないといわれています。
テプリッツに到着する3日前ベートーベンはチェコのプラハで”不滅の恋人”とデートしています。
その後それぞれ別の場所に移動したわけですが、ベートーベンは思いが盛り上がりすぎて情熱的なラブレターを書きつけたのでしょう。
べートーベーン42歳、ヨゼフィーネ33歳です。
全文の訳がピアニスト瀬川玄さんのウェブサイトで公開されています。
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ベートーベンがヨゼフィーネにピアノを教え始めたのが1799年、ヨゼフィーネが亡くなったのが1821年ですから、22年間思い続けたことになります。
ベートーベンは生涯独身でした。
まさに「不滅の恋人」といえます。
うきうきしすぎでしょぅ。の7番1楽章↓