モーツアルトザルツブルクからウィーンに
モーツアルトが最初に就職したのは生まれたザルツブルクの大司教の宮廷でした。
父親が宮廷楽団員だったので、子どもの頃からその世界で音楽にかかわっていました。
大司教の宮廷ですから、仕事は宗教音楽です。
大司教様の厳格な管理のもと、宗教音楽を作り続けることは、安定はあるけれどマンネリなわけです。
そこでモーツアルトは大司教に嫌われる形で解雇されて、晴れて”独立”の道を歩き始めました。ウィーンに活動拠点を移すのです。
ウィーンでは、自由です。
フリー・ミュージシャンですから、自分で曲を作り演奏会を開いたり、個人レッスンをしたり、支援者を求めて貴族の会合に顔をだしたりと、現代のミュージシャンの元祖的な活動で、生計を立てていました。
この活動が評判をとり、いよいよ作曲家として本腰を入れるのです。
オペラの作曲です。
オペラは宮廷音楽とは違い興行ですから、劇場で上演されてなんぼです。
劇場側は受ける作品を上演したいわけで、いきおい流行もの、政治批判・貴族階級の風刺的なものになりがちです。それを支配者は許しません。皇帝の許可がないと上演できません。
そんななか、台本作家のダ・ポンテが「フィガロの結婚」の許可をとりつけます。
「フィガロの結婚」は簡単にいうと貴族社会の下世話な話で、召使が貴族をやりこめるストーリーなのですが、原作よりもオブラートにつつんだ台本にしたことで許可が出たということです。
フィガロの結婚序曲。ヤンソンス指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
モーツアルトはほかにもオペラのヒットを飛ばしながらも、皇帝ヨーゼフ2世から宮廷作曲家として指名され、毎年新年の舞踏会用の舞曲を作曲するという仕事も受注しています。
目を見張るフリー活動です。
モーツアルトとダ・ポンテ
モーツアルトとダ・ポンテは「フィガロの結婚」のヒットで勢いづきのほか2本のオペラでコラボレーションしました。
「ドン・ジョバンニ」1787年
「コジ・ファン・トゥッテ」1789-90年
これらも大成功を収めました。
ドン・ジョヴァンニ 序曲 ダニエル・ハーディング指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団