ナポレオンの登場
ベートーベンが生まれたボンからウィーンに拠点を移したのは1792年です。
1792年というと1789年に起こったフランス革命の3年後です。
フランス革命の混沌のなかで革命軍として戦い、国民の期待を背負って頭角を現したのがナポレオンです。
ナポレオンは市民精神と民族解放を旗印に、革命の理念をヨーロッパ各地へ広めようと、遠征にでかけます。
これは実際にはナポレオンの個人的野心を実現させるための征服戦争で、「ナポレオン戦争」とよばれます。
ナポレオン戦争
ナポレオン戦争の枠組みはおおまかに次のような形です。
ナポレオン軍のフランスとナポレオンの理念に共鳴したポーランドなどの国
対
イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国
対
イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国
ナポレオンは1809年までにヨーロッパの勢力地図を塗り替えました。
ナポレオンがヨーロッパを征服し全盛期を迎え、その後負け始め追放されて、ヨーロッパの国々が元に戻そうと話合う「ウィーン会議」までとベートーベンの交響曲が作られた時期はおおまか重なっています。
ナポレオン戦争とベートーベンの交響曲
動向とおもな戦況は次のとおりです。
1796年 イタリア遠征
ナポレオン、北イタリア平定。
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク) |
1798年 エジプト遠征
「ピラミッドの戦い」
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オスマン帝国 |
「ナイルの海戦」
×フランス(ナポレオン軍) | 〇イギリス |
1799年 マントバ包囲網
オーストリア、北イタリア奪回。
×フランス(ナポレオン軍) | 〇オーストリア(ハプスブルク) |
1800年 第2次イタリア遠征 「マレンゴの戦い」
フランス、北イタリア再奪還
ジャック=ルイ・ダヴィッド画「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク) |
ベートーベン交響曲第1番作曲 |
1801年 ナポレオン、フランス革命で関係が悪くなっていたローマ教会と和解
フランス(ナポレオン軍) | 講和 | オーストリア(ハプスブルク) |
1802年 「アミアンの和約」フランス、イギリス講和
フランス(ナポレオン軍) | 講和 | イギリス |
1803年 イギリス、フランスへ宣戦布告
ベートーベン交響曲第2番作曲 |
1804年 ナポレオン、国内での幅広い支持を受け、国民投票により皇帝に即位。ローマ教皇立ち合いのもと戴冠式を挙行。
ジャック=ルイ・ダヴィッド画「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」
ベートーベン交響曲第3番「英雄」作曲 |
1805年 「トラファルガーの海戦」
×フランス(ナポレオン軍) | 〇イギリス |
1805年 「アウステリッツの三帝会戦」
〇フランス(ナポレオン軍) | ×オーストリア(ハプスブルク)、ロシア。
オーストリア、フランスに屈服。 |
1806年 「イエナの戦い」
〇フランス(ナポレオン軍) | ×プロイセン |
1807年 ポルトガル征服
〇フランス(ナポレオン軍) | ×ポルトガル |
ベートーベン交響曲第4番作曲 |
1808年 スペイン征服
〇フランス(ナポレオン軍) | ×スペイン |
ベートーベン交響曲第5番、第6番「田園」作曲 |
1812年 ロシア遠征
×フランス(ナポレオン軍) | 〇ロシア |
ベートーベン交響曲第7番、8番作曲 |
1813年 6月 「ビトリア(スペイン)の戦い」
ウェリントン侯爵率いるイギリス軍がフランス軍に勝利。
×フランス(ナポレオン軍) | 〇イギリス、ポルトガル、スペイン |
ベートーベン「ウェリントンの勝利」(戦争交響曲)作曲 |
1813年 10月 「ライプツィヒの戦い」
×フランス(ナポレオン軍) | 〇プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデン |
1814年 ナポレオン、エルバ島に追放。ウィーン会議開始。
1824年
ベートーベン交響曲第9番作曲 |
ナポレオン絶頂の1808年に作曲された交響曲第5番1楽章
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ベートーベン交響曲第5番1楽章さび
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